十代の頃から,「将来の自分は,例えばこういうタイプの大人になりたい」と考えて来た人物の一人が,ビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティンです.
ジョージ・マーティン( #ビートルズ のプロデューサー)が亡くなったので,今日は彼が1998年にプロデュースした,ビートルズのカバー曲集「イン・マイ・ライフ」を聴いていた. #GeorgeMartin #TheBeatles pic.twitter.com/1eR9Palo1N
— 野島 高彦【化学】 (@TakahikoNojima) 2016年3月10日
きっかけ
中学1年の夏休み,たまたまみつけたビートルズの4曲入りレコードをレコードプレイヤーのターンテーブルに乗せてみたところから私の音楽好き人生が始まっています.あれは1981年の8月.
それからビートルズについて興味をもって調べたり読んだり聞いたりするうちに,「プロデューサーのジョージ・マーティン」という人物がビートルズの成功に重要な役割を果たしていたことを知りました.
アイデアを具体的な形にして残した人
音楽に無知だった私には,プロデューサーっていうのがどういう仕事をする人なのか全くわからなかったのですが,どうやらミュージシャンが作詞・作曲してきた曲を,1枚のレコードにするまでのアレコレを担当する人,のようだということが,そのうちにわかってきました.
あるときは曲の構成を指示したり,あるときは自らのピアノ伴奏を加えたり,あるときは効果音を加えたり,あるときはエンジニアと一緒に機器をいじって新しい音作りに取り組んだり,あるときはオーケストラを連れてきて自ら指揮したり.
名曲「Yesterday」の伴奏をしているオーケストラのために譜面を書いたのは彼です.
ビートルズはすばらしい作品を創り,すばらしい演奏をしましたが,それをすばらしいレコードにしたのはプロデューサーのジョージ・マーティンでした.
それは自分よりも年下の世代と接する大人の理想的な姿
様々な書物には,デビュー当時20才ソコソコだったビートルズの4人(1940年〜1943年生まれ)を相手に,10才以上年上のジョージ・マーティン(1926年生まれ)がどのように接していたかが記されています.
たとえばジョージ・マーティン自身による『ビートルズ・サウンドを創った男 耳こそはすべて』の194ページには次のように記されています.
最初のころは私が先生で彼らが生徒のような関係だった。彼らはレコーディングについて何も知らず、私がやれといったことをひとつひとつ実行していたのだった。だが彼らがそれを身につけるのは非常に速くて、最後には主客転倒して私が彼らに仕え、彼らが私を指図する立場に立っていた。「オーケー、今夜は八時からスタートしよう」と彼らがいえば、私はその時間に合わせて来るというように。
- 作者: ジョージマーティン,George Martin,吉成伸幸,一色真由美
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2002/08
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このスタイルは十代から二十代にかけての私にとって,自分が目標にしたい大人の姿の一つでした.
自分が基本から教えた10才以上年齢の離れた若者の能力を認め,彼らのリクエストに自分が応える,というスタイルを認められる大人は21世紀の今でも珍しいし,それが半世紀前の出来事だと考えると,ジョージ・マーティンがどれだけ懐の広い人物だったのかが想像できます*1.
ビートルズが解散したときのジョージ・マーチンよりも年上になった今の私は,果たして彼のように年下の世代に対して理解を示し,素直に能力を認め,成長を快く手伝っているのかと言うと,100パーセントYESとは答えられません.
今の私にとっても,ジョージ・マーティンは目標にしたい価値観をもった人物の一人です.
亡くなったジョージ・マーチンの自伝とか,周辺の人々の回顧録とかを十代から二十代の頃に読んで,自分もこういう大人になりたいものだと思った.自分よりも年下の世代の4人組( #ビートルズ )の生意気で勝手な意見にブチ切れすることなく付き合って作品を仕上げてるのは本当に素晴らしい.
— 野島 高彦【化学】 (@TakahikoNojima) 2016年3月9日
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*1:実際には一度ビートルズにブチ切れして突発的に休暇を取っている.しかし,それはビートルズが悪い.